全 情 報

ID番号 06900
事件名 保全異議申立事件
いわゆる事件名 東京貨物社事件
争点
事案概要  イベントの設営等を業とする会社の労働者が退職に際して使用者と合意した「退職後三年間は同業他社に就職すること、及び個人あるいは会社として同業を営むことは一切いたしません」という旨の競業禁止の特約の効力が争われた事例。
参照法条 労働基準法2章
民法90条
体系項目 労働契約(民事) / 労働契約上の権利義務 / 競業避止義務
裁判年月日 1997年1月27日
裁判所名 浦和地
裁判形式 決定
事件番号 平成7年 (モ) 2319 
裁判結果 原決定取消,申立却下
出典 時報1618号115頁
審級関係
評釈論文
判決理由 〔労働契約-労働契約上の権利義務-競業避止義務〕
 一 一般に、何人にも職業選択の自由が保障され(憲法二二条一項)、また、一切の事業活動の不当な拘束を排除することにより、公正で自由な競争を促進すべきものとされている(私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律一条参照)我が国においては、基本的には、競業禁止は、たとい合意によるとしても、無制約に許されてはならないものというべきであり、それが許されるのは、それを必要とする合理的理由があるとき、その必要を満たすに必要な範囲でのみ競業を禁止する合意が、正当な手続きを経て得られ、かつ、禁止に見合う正当な対価の存在が認められる場合に限られるものというべきである。特に、使用者と労働者との間で成立させられる競業禁止の合意については、企業者同士の間の合意に比べて、当該合意を成立させることにより利害得失についての双方の考慮の合致の結果としてのものというより、一方(使用者)の利益を守るためのみのものとして成立させられる危険が大きいから、この点はより厳格に解すべきものということができる。
 二 当裁判所は、右を前提にして、以下の各事情の下では、本件各競業禁止特約は、仮にその効力が認められるとしても限られた範囲内においてであって、それを超える部分においては、公序良俗違反により無効となり、その時間的範囲に関して見た場合、少なくとも現在においては効力を有しないものであると判断する。
 1 本件各競業禁止特約が債務者らに課する競業禁止の負担は、退職後三年間すべての競業行為をすべての地域において禁止するというものであり、その期間、地域、職種などの範囲のいずれからみても、競業を行おうとする債務者らにとって重大な制約となるものである。
 2 本件各競業禁止特約は、その内容自件、一方的に債務者らに義務を負担させるだけであり、債務者らは、右特約により、それが存在しない場合に比べて、失うもののみがあり、得るものは何もない。例えば退職金について見た場合、債務者らが本件各競業禁止特約の成立と同時に受領した退職金の額は、むしろ、本件退職金規程によって算出されるものに比べて、債務者小林につき二六二万八八三八円、同木村につき二二八万三二三三円少なくなっている。
 3 本件各競業禁止特約は、債務者A及び同B(以下、右両債務者のみを意味するものとして「債務者ら」ということがある。)が既に退職願を提出して相当期間(債務者Aの場合約一・五箇月、同Bの場合約一〇箇月)が経過した後になって実現した退職のときに成立したものであり、勤務継続中に勤務継続の前提とされていたものではない。
 4 本件就業規則中の本件競業禁止規定も、債務者Aについては退職願を提出する直前であり、同Bについては退職願を提出してから約八箇月後である平成七年二月二八日になって新設されたものであって、これを、債務者らがその存在を前提にその下で就業してきたものとすることはできない。
 5 債権者の側に、本件各競業禁止特約におけるように退職後の従業員による競業を厳しく禁止するということ以外の方法で守ることの困難な正当な利益が存在したことは、本件全証拠を検討しても認めることができない。
 企業が、その従業員が退職後直ちに無制約に自己と競業関係に立つことはないことを前提にした形での事業遂行方法を選びたいと希望することは、ある意味でごく自然なことであり、このような選択が全く許されないことになれば、事業遂行方法に大きな制約が加わり、企業の活力が失われることにもなりかねないから、この希望は、正当な利益として一定限度においては法的保護に値するものというべきである。しかし、この保護は、当該事業の性質や当該従業員の従事していた任務の内容などに照らして判定されるべき一定範囲に限られるべきであって、通常は本件各競業禁止特約におけるように退職後の従業員による競業を厳しく禁止することにまでは及ばないものというべきであり、債務者らの場合がその例外の場合に該当することを認めるべき証拠はない。
 6 本件各競業禁止特約は、本件競業禁止規定の存在を前提に、しかも、債務者らが本件退職金規程の存在とその内容を伝えられることなく、成立したものである。
 本件各競業禁止特約が本件競業禁止規定の存在を前提にしていることは、前認定の各確認書の文言自体で明らかである。そして、就業規則で定められている事項については、たとい不満であっても逆らうことができないと考えるのが通常の労働者であろうと思われるから、本件競業禁止規定の存在が前提にされたとの事実は、その限度で、本件各競業禁止特約を成立させるか否かについての債務者らの自由な意思決定を妨げる要素を包含するということができる。
 債務者らが、本件各競業禁止特約を成立させるに当たり、改めて本件退職金規程の存在とその内容を伝えられていないことは、審尋の全趣旨で明らかである。また、債務者らが本件退職金規程の存在あるいはその正確な内容を知らない状態で本件各競業禁止特約を成立させたとの事実は、現実に受領した各退職金の額と右規程により算出される各退職金の額との対比から容易に推測することができる。債務者らがこれらを知っていたのなら、現実に受領した退職金の額に不満を示す何らかの言動に出るのが通常であろうと考えられるのに、本件の異議申立後になるまでの間にそのような言動に出た痕跡は、本件全証拠を検討しても見出すことができないからである。そして、債務者らが本件退職金規程の存在あるいはその正確な内容を知らなかったとすれば、退職しようとしている労働者として、退職金を得よう、あるいはその額をできるだけ多くしようと考える債務者らが、債権者の求める書面への署名捺印を拒むことに困難を感じ易くなることも、見やすい道理というべきである。
 二 以上のとおり、本件各競業禁止特約は少なくとも現在においては効力を有しないものというべきであるから、これと異なる内容の原決定を取り消したうえ、債権者の本件仮処分命令申立てを却下することとし、主文のとおり決定する(原決定を根拠とする既存の執行事件が全く存在しないことは審尋の全趣旨で明らかであるから、原決定の時点から現在に至るまでの間の効力については、あえて判定することをしない。)。